~花の都、「フィレンツェ」~
ルネサンスの大輪の花、「花の都」フィレンツェ、
1400年代に、数多くの芸術家がキラ星のごとくメディチ家を取り巻き、
この町に、そして芸術史に、足跡を残していった。
彼らの遺産は今も光の中で輝く。
ルネサンスを具現化するかのようなミケランジェロの像、
アンジェリコの清らかで優美な天使達、
魅了してやまないボッティチェッリの女神たち、
ブルネッレスキの壮大なクーポラとジョットの鐘楼などなど・・・・。
数え上げることができないほどの、遺産が残るフィレンツェの小道を歩く時、
その街並みは、今もルネサンスの息吹を感じさせる。
ルネサンスを象徴する記念碑、
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂
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―[目次]―
[ フィレンツェの発祥]
エトルリア人が設けた渡河地点にローマ人の植民市が生まれる:
フィレンツェの北北東、市の中心から道路距離にして8キロの丘の上に、フィレンツェの母と呼ばれる小さな町フィエーゾレ (Fiesole)がある。昔も今も高級別荘地として名高く、古代の野外劇場の遺跡や中世のロマネスク式の教会などがあり、あたりの眺めもすばらしいので、訪れる人が絶えない。
フェゾーレからフィレンツェ市街の展望
このフィエーゾレが丘の上に位置していて、守るに易く、悪疫の害をこうむることも少なそうなので、紀元前8世紀頃にエトルリア人が町を築いたのが、フィレンツェ発祥の元になったと考えられている。
このようにエトルリア人は軍事と公衆衛生の観点から丘の上に町を設けたのだが、交易のためにはアルノ川 が一番渡りやすくなっている地点をも重視した。それが今もなおフィレンツェの名物、黄色と茶色の階上廊をもつポンテ・ヴェッキオ (古い橋という意味)がかかっている地点だ。
フィレンツェ、 ピサ 、シエーナなどを含む地方をトスカーナと呼ぶが、ローマ人が進出してくるまではこの地方はエトルリア人のものだった。
紀元前3世紀になるとローマの勢力が伸びてきて、エトルリア人の諸都市もローマの同盟都市にならざるを得なくなり、なし崩し的にローマ化されていった。紀元前59年カエサルは摩下の軍隊から退役した兵士達に土地を与え、現在フィレンツェの中心になっているあたりに新しく植民市を作らせた。カエサルがポンペイウスらと第1回三頭政治を組んだ翌年のことだ。
退役兵士らは当地の最も重要な地点つまりアルノ川の橋を押さえられるところに新しい都市を作った。新しい都市はローマの軍営の伝統に従って長方形をしており、城壁をめぐらしていた。その中心を南北に貫く大通りカルド.マクシムス(現在のローマ通りとカリマラ通り)が城壁の南門を出ると、その先にアルノ川の橋がくるという設計であった。
フィレンツェの市街地図を見ると、北はサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂から、南はシニョーリア広場に至るまでの区域では、街路がほぼ整然と碁盤目になっていることが分かる。これがローマの退役兵士達が植民地を建設した時以来の最古の旧市街だ。そのまわりでは道路がだいたい放射状になっていて不規則なのとは、ハッキリした違いが認められる。
この旧市街の赤い屋根がつづく景観のなかでサンタ.マリア・デル・フィオーレ大聖堂の巨大な円蓋は、より強い赤の色調に輝いている。 街の北部をゆったりとアルノ川が流れている。いくつもかけられた橋の中で、とりわけ、中世以前に架けられ、その後14世紀に再建されたフィレンツェ最古の橋、ポンテ・ヴェッキオ(ヴェッキオ橋)の特異な美しさが目をひく。古都フィレンツェの中心、旧市街にあるこれらの建築遺産は、きわめて印象的な都市の肖像といえる。
[ ルネサンスの文化遺産と中世の残照]
イタリア・ルネサンスの誕生:
クワットロチェント(美術史においては、15世紀イタリアを指してこのようによぶ)の初め、ここでルネサンスが誕生した。
ルネサンスは“再生・復活“を意味するイタリア語のリナシタ(rinascita)が語源である。古代ギリシャ文化 ・古代ローマ文化 の再生という意味でイタリア・ルネサンスの建築家、画家、美術史家ヴァザーリ(1511-74)が用い始めた。英語でいえばリバイバルrevivalに当たる語である。この時期(16世紀)に丁度、古代彫刻や遺跡の発掘が盛んに行われたりと古代ギリシャ・ローマ文化に対する機運が高まり、再認識される時代となった。ルネサンスはこうした古代芸術を古典中の古典と捉え、芸術理念としたのであった。
ルネサンスは地中海貿易で繁栄した北イタリア、フィレンツェなどトスカーナ地方の諸都市を中心に、教会やイスラム世界、東ローマ帝国の保存していた古典文化の影響を受けて14世紀頃にはじまった。その先駆者とされるのはフィレンツェ出身で『神曲』の著者、ダンテ・アリギェリ(1265-1321)である。ダンテの影響の下で洗練されたイタリア語が発達し、ジョヴァンニ・ボッカチオ(1313-1375)が名著『デカメロン』を著したのもこのフィレンツェで、この著作は散文の原型として文学史に名を残すことになった。
イタリアでルネサンス文化が開花したのは、フィレンツェ、ミラノ、 ローマ、 ヴェネツィアなどの都市である。学芸を愛好し、芸術家たちを育てた パトロンとして、フィレンツェのメディチ家、ミラノの スフォルツァ家などの権力や財力のもとにルネサンス文化が花開いていった。
メディチ家は聖俗の両世界、つまり教会と国家に君臨し、芸術家や哲学者(新プラトン主義)などの擁護者となった。教会建築や教会芸術のために寄進し、この家系から教会最高位の ローマ教皇(レオ10世・在位1513-21、クレメンス7世 ・在位1523-34)も出た。
ルネサンスはこうしてフィレンツェからローマ、マントヴァ、ウルビーノ 、ヴェネツィア、そしてアルプス 北の国々のフランドルやネーデルラントに大きな影響を与えていった。こうした全ヨーロッパに広まった美術、文芸等の文化上の革新運動がルネサンスであった。
ルネサンス芸術に用いられた題材を見ると大変興味深い。教会芸術には聖書から、世俗芸術にはギリシャ神話から題材が取られた。ギリシャ神話を用いたものでも当然ながら根幹にはキリスト教が投影され、寓意されている。
この時代、イタリア(フィレンツェ)ではブルネレスキ (金細工師、彫刻家、ルネサンス最初の建築家)、ドナテッロ (彫刻家)、マザッチョ (最初に科学的に、遠近法を使用した画家)、ボッティチェッリ (ロレンツォ・デ・メディチの時代を代表する画家、「春」や「ヴィーナス誕生」の題材はギリシャ神話)、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの美術家が活躍した。
世界のどこにも、このフィレンツェほど、狭い区域にもっとも名高 い画家、彫刻家、建築家の手になる、これほど数多くの芸術作品や 建造物力集中している都市はない。
フランドル(現在のオランダ、ベルギー、フランス北部に当たる)では特異な画風をもつボスやブリューゲルがいた。他の分野ではコロンブス、マキャベリ (以上イタリア人)、コペルニクス (ポーランド人でイタリアの諸大学で学び活躍)、シェークスピア (イギリス人)などが輩出した。
ルネサンスの時代は決して明るい時代ではなく、ペストの流行や(マキアヴェッリが『君主論』を著したことで知られるように)政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷や教皇庁など一部の人々に過ぎず、魔術や迷信もまだ強く信じられていたのである。
ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしたが、国内は教皇領や小国に分裂し、またイタリア戦争 (16世紀に主にハプスブルク家=神聖ローマ帝国・スペインとヴァロワ家=フランスがイタリアを巡って繰り広げた戦争)後は外国の勢力下に置かれたため国家統一が遅れ、政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になった。
ドイツ人のルターのによる宗教改革(1517年~)やイギリスの ヘンリー8世の宗教改革(1533-34年)などが、時を同じくして起こった。
こうしたプロテスタントを生み出した宗教改革とカトリック側の反宗教改革との対立や摩擦が、興味深い文化改革を引き起こしていった。それは清楚を旨とするプロテスタンティズムと壮麗さを主張するカトリシズムの対立であり、ある時は反撥しあい、ある時は同調し、カトリック内部での論争や反省などが多様な文化を生み出していった。
つまりカトリック側の反宗教改革(トレント公会議 1545-63=カトリック教会の公会議)は、プロテスタントへの巻き返しと自省するという両面がある。このことはルネサンスの重要な側面といえよう。例えばパレストリーナの音楽は、カトリック側のひとつの反省的側面がみられる。その禁欲的とも思える程の硬質さと清楚さをもつ音楽は、そうした点を突いているといえないだろうか。
フィレンツェの象徴・・・・・・
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂:
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂
ローマ時代にこの町はフロレンティア(Florentia)と呼ばれていた。その由来については諸説があり、エトルリア時代にフィエーゾレにいた王の名によるとか、アルノ川が奔流している(ラテン語でfluenti)から、という説もある。しかし現代の史家は、植民市を建設した退役兵達が単に縁起の良い名として「花咲く」「繁栄する」という意味のflorensから市名をとって、Florentiaにしたのだろうと考えている。それが少しずつ変化して現在のようにフィレンツェ(Firenze)になったわけである。したがって英語名のフローレンス(Florence)のほうがむしろローマ時代の古名に近いともいえる。
ともあれフィレンツェという市名は発足当初から「花の都」という意味合いを含んでおり、市の紋章も百合の花であった。そこでイタリア全体では約3,000にものぼる聖母マリアに捧げられた教会に、お互いに区別できるように修飾辞をつけた時、当市ではサンタ・マリア・デル・フィオーレ(Santa・Maria・del Fiore=花の聖母マリア)と呼ばれるようになったのは当然の成り行きであったろう。
この大聖堂は、本堂、鐘楼、洗礼堂という3つの建物に分かれている。現存している建物についていえば、最も古いのは本堂の前にある八角形の洗礼堂だ。
サンジョバンニの洗礼堂
サンジョバンニの洗礼堂
いまサンジョバンニの洗礼堂が建っている場所には、ローマ時代、軍神マルスの神殿があったという。5世紀にその跡地に教会が建てられ、フィレンツェの守護聖人である洗礼者ヨハネに捧げられて、サン・ジョヴァンにと呼ばれた。それが11世紀に改築されて現在のようなロマネスク式の八角堂になったのである。この頃からフィレンツェでは毛織物業その他の手工業や商業が盛んになって大発展の時代に入り、1128年には現在本堂がある場所にサンタ・レパラータ大聖堂ができて、サン・ジョヴァンニはそれに付属する洗礼堂の役を務めることになった。
サン・ジョヴァンニは白大理石と様々の色美しい大理石を組み合わせて構築されており、この様式はサンタ・レパラータ大聖堂を改築して造られた現在の本堂とジョットの鐘楼にもそのまま受け継がれている。そしてフィレンツェの発展につれてその影響はトスカーナ地方の各地に及び、同じような手法による聖堂建築が生まれる基になった。
サンジョバンニの洗礼堂
天井のモザイク画
サン・ジョヴァンニ洗礼堂の中に入ると、八角形のドームの天井いっぱいに施されている金色燦然たるモザイクの見事さにまず目を奪われる。祭壇のある西正面のテーマは最後の審判だ。巨大なキリスト像の左右で天使達が角笛を吹き、その音につれて地下から続々と死者が甦って来て、大天使ミカエルにより正邪が量られ、正とされた者は天国へ、邪とされた者は地獄へと送られる。キリストは右手を上向きにして正なる者を天へ、左手を下向きにして邪なる者を地獄へと指し示している。キリストに向かって右のほうへ図像をたどってゆくと、最上段には天地創造に始まる旧約聖書の物語、第3段には受胎告知に始まる新約聖書の物語がずっと続いているのがよく分かる。これらのモザイクはチマブーエなどフィレンツェの画家達が下絵を書き、ヴェネツィアから招かれた職人達が14世紀初頭に完成させたものである。
色大理石を駆使した壁画の装飾も見事で、中2階に婦人席のためガレリア(回廊)が設けられているのは11世紀にはなおビザンチン建築の影響が強かったことを物語っている。色石で様々の幾何学模様を表している床のモザイクも見ものだ。
ルネサンス美術史に名高い「天国の門」が出来上がるまで
天国の門
サン・ジョヴァンニ洗礼堂では西側に祭壇があり、南北と東の3方に入り口があって青銅の扉が設けられている。その青銅扉はアンドレア・ピサーノ が制作し1338年に東入り口に取り付けられたのであるが、後に南入り口に移された。
ゴシック式独特の四つ葉形の枠に囲まれた28枚のパネル(板状のもの)からなり、洗礼者ヨハネ の物語が浮彫りになっている。
北入口の青銅扉はルネサンス美術の歴史に名高いコンクールの対象になったものだ。12世紀末にフィレンツェでは コムーネ (都市国家)が確立し、有力な商人組合の連合体が政権を握って、大繁栄の時代に入った。ところが14世紀にはいると近隣の都市国家との戦いで2度までも大敗を喫し、あまつさえ大洪水やペストに襲われたりで沈滞の極に達していった。そこで1401年にフィレンツェ最大の商人組合であったカリマーラ(毛織物業者組合)が主催して、北入口の青銅扉の製作者を公募し、市に活況を呼び戻すきっかけにしようとしたのだった。
課題はゴシック式の四つ葉形の枠内に収まるように、旧約聖書の「 イサクの犠牲 」をテーマにした青銅の浮彫りを制作することであった。
審査の結果ギベルティとブルネッレスキ の作品が残り、優劣を決しかねた選考委員会は両者同点ということにして、2人共同で北入口の青銅扉の製作を行うようにすすめた。しかしブルネッレスキは共同制作を嫌い、勝ちをギベルティに譲って、自らは古代の建築や彫刻の研究をすすめようと ローマ に旅立ってしまう。2人の課題作品は今でもバルジェッロ博物館の2階に並んでいて、見比べることができる。
ギベルティのほうは旧来のゴシック式の伝統を受け継いでバランスよくまとめてあるのに対し、ブルネッレスキのほうは登場人物の動きをリアルに表現し劇的な迫力に満ちているといわれる。史家はこのコンクールをもってルネサンス美術が黎明を告げたとしている。
ギベルティは約20年がかりで北入口の青銅扉を完成した。テーマは新約聖書の物語である。そして、引き続き残りの扉の製作をも依頼された。最初にアンドレア・ピサーノが作った東扉と同じく、ギベルティが作った北扉もゴシック式の枠に囲まれた28枚のパネルからなっていたが、残り一つの扉についてはゴシック式の枠を除き、絵画のタブロー(板絵やキャンバス絵)を思わせるような10枚の広いパネルにして鍍金(メッキ)を施し、周りを装飾的な浮彫りで囲むという構成になっている。テーマは旧約聖書の物語で、遠近法を巧みに取り入れ、従来の浮彫りとは趣の違う深みをよく表現している。すでに老境に入っていたギベルティは息子たちやミケロッツォ、ゴッツォーリなどの助けを借りて、1452年にこれを完成した。足かけ27年がかりの労作であった。
その出来映えが見事だったので、大聖堂に面する東扉に使われるようになり、アンドレア・ピサーノが作った既存の東扉は南入口に移された。ミケランジェロはこのギベルティの作品に大きな感銘を受け、「天国の門」と評した。以来、「天国の門」という名で知られるようになり、今ではパネルのオリジナルはドゥオーモ付属美術館に移され、元の場所にはレプリカ(複製品)が取り付けられている。
大聖堂本堂
大聖堂クーポラ
~ブルネッレスキが古代建築を研究して大円蓋を造りあげる~
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア)大聖堂の本堂の建設はアルノルフォ・ディ・カンピオの設計と監督により1296年に始まった。カララ産の白大理石にプラート 産の緑大理石とマレンマ (トスカーナとラツィオの間の広大な地域を指す)産の赤大理石を配した造りは、その名の如く本当に華やいだ感じだ。大聖堂南側の通りにはこの壮麗な大建築を満足げに見上げているカンピオの像がある。カンピオの原案は何回も手直しされ、最終的に現在のようなファサード(建物の正面部分)が出来上がったのは1887年である。その間1334年にはジョットが監督に就任し、本堂の工事を進めると共に、自ら鐘楼を設計して建築に着手した。鐘楼の高さは82メートルあり、414の石段を登り最上階に達すると、そこからは本堂の全容を眺めることができるといわれている。本堂は非常に大きく、まわりは建てこんでいるため、地上からではなかなかその全容がつかめないのである。
本堂は奥行きが153メートルもあり、建築当時においては世界最大のキリスト教の聖堂であった(後にローマのサン・ピエトロ、ロンドンのセント・ポールに追い越されたが、なお第3位を保っている)。工事の山場は身廊と袖廊の交会部に大円蓋 (クーポラ)を構築することであった。交会部に円蓋を設けることはすでにロマネスク時代から行われていたが、このような大規模なものは無かったのである。
円蓋は楔形になっている石が自らの重みで互いに押し合うという迫持ち (せりもち)の原理で成立している。ところが円蓋が巨大だと全体として非常に重くなり、支えの壁体を横に押し開こうとする力が働いて迫持ちが崩壊する危険が生じる。円蓋の位置が高く、したがって支えの壁体も高いと、この横に押し開こうとする力はさらに強く働く。
円蓋を築くにはまず大工が木造の台を組み上げて型をのせ、その上に楔形の石を 漆喰でつなぎながら並べていって、最後に迫持ちが安定したと判断された時点で木造の部分を取り除くのであるが、その途端に迫持ちが崩壊し、下で作業をしていた大工たちが石に打たれて死ぬという事故の実例がいくつもあった。フィレンツェの大工組合は、直径42メートル、高さ100メートルという途方も無い大円蓋の石材をひとまず支えるに足る木造りの台を作ることは不可能だとして、工事を拒否した。
困り果てた市政府は新しい案を公募するに至る。種々案が出た中でブルネッレスキの案が断然光っていた。ブルネッレスキは円蓋を内外二重にし、木造の模型まで作って市の委員会を説得した。この模型はいまもなおドゥオーモ付属美術館に展示されている。
クーポラの木造模型
ドゥオーモ付属美術館所蔵
クーポラの構造に関する詳細はクーポラの構造を参照
それでもなお、市の委員会は実績の無いブルネッレスキに工事を一任することを渋り、またもやギベルティと共同でやるという条件のもとに彼の案を採用した。しかし彫刻には練達していたギベルティも建築においてはまったく無能であることが明らかになって解任され、後はブルネッレスキが一人で思う存分に力量を発揮することになる。工事は1420年に始まり、1436年に一応の完成を見て大聖堂としての献堂式が行われ、1461年に完全に出来上がった。これはルネサンス建築の幕開けとされる偉業であった。
この大円蓋にはエレベーターで途中まで登ってから、内外二重になっている円蓋の間に斜めに設けられている階段をたどって、頂冠(塔や小塔の装飾的な先端部)のテラスに出ることができる。前人未到の境地を開いたブルネッレスキの偉業を目の当たりにしながら到達した頂冠からの眺めは、驚嘆の一語に尽きる。
頂冠からの眺め
~大聖堂のファサードと本堂内部~
大聖堂のファサード(建物の正面部分)は、19世紀にE・デ・ファブリによって完成され、3つの入口扉のブロンズ装飾も19世紀末のものだ。一方、建物側面には「聖堂参事会員の扉」-右側14世紀や「アーモンド形装飾の扉」-左側15世紀・タンパン(扉のすぐ上のアーチ部分の半円形の部分に彫られた彫刻)はギルランダイオの[受胎告知]のモザイク、など古い部分が見られる。聖堂の後ろに回ると、円蓋の基部から放射状に広がる後陣部分の量感がよく分かる。
ファサード
大聖堂内部
内部は角柱で3廊に仕切られ、大きな空間と少ない装飾が厳格な印象で、外観の華麗さとはかなり対照的な感じだ。左の側廊の壁面には A.デル・カスターニョの「傭兵隊長ニコロ・ダ・トレンティーノ」とP.ウッチェッロの「傭兵隊長ジョン・ホークウッド」の騎馬像の大画面が並び、その先には「神曲」の本を開いたダンテの肖像も見られる。
A.デル・カスターニョの 「傭兵隊長ニコロ・ダ・
トレンティーノ」
P.ウッチェッロの
「傭兵隊長ジョン・
ホークウッド」
ドメニコ・ディ・ミケリーノの
「ダンテ《神曲》の詩人」
主祭壇は大理石で仕切られ、 B.ダ・マイアーノの「十字架像」が飾られている。
ジョルジョ・ヴァザーリとフェデリコ・ツッカリの「最後の審判」
放射状に並ぶ3つの後陣の間には新旧2つの聖具室 が挟まれていて、入口のタンパンには L.デッラ・ロッピアの彩色テラコッタ「キリストの昇天」Ascensione(右側、旧聖具室)と「キリストの復活」Risurrezione(左側、新聖具室)が載っている。
L.デッラ・ロッピアの「キリストの昇天」
中央の後陣に安置された「聖ザノービ(フィレンツェの初代司教)の棺」Arca con le Relique di S. Zanobiはギベルティの代表作の一つである。
ギベルティの「聖ザノービの棺」
左隣りの新聖具室は1478年の復活祭のミサでパッツィ家の陰謀により刺客に襲われたロレンツォ・デ・メディチが命からがら逃げ込んだ場所-弟のジュリアーノはこのときに殺害された-で、見事な寄木細工の戸棚が見られる。
聖具室『寄木細工の戸棚』
大聖堂内部の装飾
入口近くの右側廊には地下のサンタ・レパラータ教会の遺構への入口がある。これは近年の発掘で現在のドゥオーモの前にあった教会の構造が明らかになったものだ。また、地下にはブルネッレスキの墓もある。
ジョットの鐘楼
大聖堂の脇に、大聖堂と同じく赤、白、緑の大理石で造られた、高さ約84mのゴシック様式の鐘楼が建っている。 ジョット・ディ・ボンドーネにより設計され、建設に着手された鐘楼である。