幻の都ペトラで冒険の旅を!
スティーブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスが生み出したインディ・ジョーンズ・シリーズの第3作『最後の聖戦』のラスト・シーンに登場したことで一躍有名になった遺跡がこのペトラだ。
実はヨルダンのこの辺りは映画の舞台にたびたび登場するロマンあふれる砂漠地帯 。たとえば近くには『アラビアのロレンス』 のロレンスが活動を行ったワディ・ラムやアカバの街があり、また『十戒』で知られるようにモーセ は紅海をまっぷたつに割ってこの辺りに渡ってきた。実際ペトラにもモーセゆかりの遺跡は多い。
そんな砂漠地帯にあって、ペトラは周囲を断崖と岩山に囲まれた天然要塞で、そこを知る者しか到達できない幻の都。断崖絶壁に囲まれた一本道=シークを抜ければ気分はもうインディ・ジョーンズ。
そんな本物のロスト・ワールド、ヨルダンの世界遺産「ペトラ」を紹介しよう。
バラ色の都市ペトラのハイライト、エル・ハズネ
その登場の瞬間は、全世界遺産の中でももっとも感動的なもののひとつだ
ペトラは『インディ・ジョーンズ』そのものだ。 起点になるのはワディ・ムーサという村だが、ほとんどのホテルのリビングにはテレビとビデオが設置されていて、 『最後の聖戦』を繰り返し上映している。ペトラを訪れる者はここで気分を高め、テーマ曲を頭に刷り込ませる。 そうしてインディ博士になったところでいよいよペトラへ向かう。博士のように馬で駆け抜けたい人は馬を借りるもよし。 ヒロイン気分で馬車に乗ることもできるし、ロバでテクテク三枚目を気取るのも悪くない。 でも、まずは徒歩をオススメしよう。博士は一気に駆け抜けてしまったが、この断崖こそがペトラのひとつのハイライトなのだ。
ペトラは砂漠の岩山に囲まれた天然要塞で、 ペトラに入るまともな道はシークしかない。シークとは、狭い岩の裂け目のことを言うのだが、 断崖の高さは100mにもなるのに、道幅は細いところでわずか3~5mほどしかない。こんなシークが約1.5kmも続く。
これだけで驚異だ。岩はピンクに白のラインが何百も層になっており、崖全体が宝石のよう。
断崖に口を開けたシーク
宝石のように美しいシークの崖
シークにはもうひとつ、重要な意味がある。 ワディ・ムーサ(モーセの涸れ谷)には、かつてモーセが杖で岩を打つと水がほとばしり出たと語りつがれてきた(旧約聖書の民数記20章11節)アイン・ムーサ(モーセの泉)と呼ばれる泉がある。 ここから素焼きの水道管を通してシークの入り口付近にあるダムに水が送られ、 さらにシークの両側に設置された導水路によってペトラとダムを結んでいる。この高度な水利システムによって砂漠の中で水を確保し、3万人の生活を支えることに成功したのであった。
アイン・ムーサ(モーセの泉)
シークの両側に設置された導水路。 この導水路が約1.5kmのシークを通り、
今は遺跡となったぺトラの都市まで延々と続いているのだ。
断崖から現れるペトラの宝物庫エル・ハズネ
シークの終わりは突然やってくる。緩やかなカーブを曲がると、 突然強烈な光が差し込んできて、わずかな岩の裂け目の向こうにバラ色に輝くファラオの宝物庫、エル・ハズネが姿を現すのだ。映画同様、 ここがペトラ最大のクライマックスとなる。
シークの裂け目から少しずつ姿を現すエル・ハズネ。 衝撃の瞬間!
ペトラは「バラ色の都市」の異名をとるように、 岩が白やピンク、赤、真紅、茶、様々な暖色で彩られている。特にエル・ハズネ周辺の岩はバラ色だ。 目が光に慣れてくると、その光が純白ではなく、バラ色に妖しく輝いているのがわかる。
太陽の位置や光の加減で、深紅、赤、オレンジ、ピンク、
赤紫と、刻一刻その色を変えるエル・ハズネ
エル・ハズネは、高さ約40m、紀元25年に建築されたといわれているが、よくわかっていない。エル・ハズネは宝物庫の意味だが、 王の墓ではないかともいわれ、これも謎に包まれたままだ。コリント式の柱のほかに、エジプトの遺跡によく登場するイシス神やギリシア、アッシリアの神々が描かれている。
たしかにここまでの1.5kmがクライマックスだが、 実はペトラにあってシークとエル・ハズネは800とも1,000ともいわれる遺跡群のたったひとつにすぎない。 まともに歩いたら2日や3日では見切れないといわれる広大な遺跡群が、ここからスタートする。
ナバテア王国の都ペトラの歴史
バラ色に燃えるぺトラ遺跡
ペトラとはギリシャ語で岩という意味で、遺跡の多くは岩を掘って造ってある。ここには紀元前13世紀頃からセイル族が住んでいた。
ローマがヨーロッパに大帝国を打ち立てるまで、オリエントはいわゆる「肥沃な三日月」地帯を中心に、 メソポタミア、エジプト、ギリシア、インダスの古代文明を結ぶ要衝として繁栄し、世界最先端の文明を誇っていた。 それぞれの文明は砂漠によって接続され、遊牧民たちがその交易を担っていた。
ナバテア人もそんな遊牧民族のひとつだった。ナバテア人は紀元前5世紀ころサウジアラビアから移動してきたベドウィンの一族で、 ローマの支配下に入るまでぺトラの支配者であった。シリアとエジプトが戦争を繰り返したおかげでヨルダン地方の交易は ナバテア人が一手に担うようになり、繁栄するにつれて人口が増し、やがて定住して都市を建設するようになった。
もともとこの地は エドム人のものだったが、イスラエルとの交戦で疲弊していたエドム人は、自然とナバテア人と融合していったようだ。 こうしてできた国がナバテア王国で、首都ペトラは最盛期には人口3万人を数えたという。
ローマ帝国が勢力を強めるとたびたび交戦するようになり、西暦106年、 ついにペトラはローマ帝国最大版図を塗り替えた トラヤヌス帝によってローマの属州となる。ローマ帝国は地中海のほぼ全域を支配し、実質的に交易権を握った。
この頃、地中海のローマ帝国に対し、 イランやカスピ海の地を パルティアが支配し、両者が激しく対立した。 このふたつの帝国の線上にあったのが世界遺産にも登録されているパルミラで、交易の中心はやがてパルミラに移り、 また、海洋貿易の発達も重なって、ナバテアの繁栄に影が射しはじめた。決定的だったのは4世紀の2度の大地震で、 これによりペトラは壊滅したといわれている。
以来1,000年以上にわたって歴史の表舞台から消え去ったペトラが ふたたび西洋に発見されるのは、1812年にスイス人探検家ヨハン・ブルクハルドがアラビア人を装って伝説の都市の噂を聞きつけて ここに入ってからである。
バラ色の都市ペトラ
エル・ハズネを抜けてしばらく歩くと視界は少し開けて、 岩山の中に円形劇場が見えてくる。2~3世紀のもので、5000人以上は収容できたという。
ローマ円形劇場
円形劇場の右側には、岩をくりぬいた建物が多くみられる。印象的なのは、王家の墓と呼ばれる岩窟墓群で、道の右側に4つ並んでいる。一番北側の巨大な墓は宮殿の墓と呼ばれているもの(1~2世紀)で、3階建てのローマ帝政期宮殿建築を模しており、コリント式の柱を使っている。個性的な建築様式をしているのだが、残念なことにこれらの意味していることは、いまだ解明されていない。
周囲の山には500ともいわれる墳墓がびっしり刻まれている。 岩は薄いピンクで、夕暮れ時、谷はバラ色に燃え上がる。
王家の墓群
1.宮殿の墓 2.コリントの墓 3.シルクの墓 4.壷の墓
1. 宮殿風の墓
ファサード(正面)がローマ帝政期のの宮殿に似ているところから、この名前がつけられた。
三段構造のうち下2段は岩をくりぬいて造られている。しかし最上段は山の斜面を超えてしまったため、石組みを追加している。
ペトラにある墓の中では最大である。紀元70年~106年に建造された。
2. コリントの墓
ファサードを飾る柱がコリント様式に削られていることから、この名前がつけられた。
紀元40年~70年?に建造された。
3. シルクの墓
ファサード(建築物の正面)を飾る豊富な色と波打つ模様が特徴。
小さな墓だが、このピンクや白、赤、青の岩模様はペトラにある墓の中で最も美しい墳墓だといわれている。
4. 壷(アーン)の墓
上部に壺(アーン)のような飾りがあることから、この名前がつけられた。
ローマ時代には、アル・マハカマ(正義の法廷:裁判所)とも呼ばれ、
ビザンチン時代(5世紀)には教会として使用されていた。
紀元前9年~紀元40年の建造。
墓の内部の美しい岩肌
さらに先に進むと、ローマ遺跡が現れる。ここは列柱通りと呼ばれ、神殿、宮殿、官庁、公共浴場が集中している。 もちろんこれはローマ帝国支配後に建築されたものだ。
列柱通り
ペトラ遺跡のほぼ真中に位置していて、残り少ない柱と丸みを帯びた石畳が残されている。
この通りの周囲には多くの遺跡が残されていたが、紀元551年の地震でほとんど崩壊してしまった。
凱旋門
列柱通りの先には凱旋門がある。紀元106年トラヤヌス帝の支配の記念、といわれている。
列柱通りに沿って巨大な遺跡がある。紀元前1世紀にナバテア人の主要な神殿として建造されたペトラ遺跡で最も巨大な建造物「大神殿」である。
大神殿
凱旋門の先にカスル・エ・ビント(ファラオの娘の城)と呼ばれる建造物がある。紀元前1世紀頃、ナバテア人が建てたドゥシャラ神(オアシスの豊穣を司る神)を奉った神殿だ。
カスル・エ・ビント
ここからはあちこちの岩山へ道が通じている。エド・ディル(歩いて1時間ほど)、犠牲祭壇(ハイ・プレイス。歩いて30分ほど)、ウム・アル・ビヤラ(歩いて3時間ほど)や、 モーセの兄アロンの墓があるホル山のジャバル・ハルーン(歩いて5時間ほど)などである。
第二のクライマックスになるエド・ディルを目指す道は、ここから急な上り坂に変わる。険しい山道を登り詰めた先にあるのが「ペトラの至宝」エド・ディルだ。
ぺトラの至宝エド・ディル
エド・ディル
岩に刻まれた約900段の石段を約1時間くらい登った先にエル・ハズネよりも一回り大きなぺトラ最大の遺跡エド・ディルが待っている。エド・デイルはペトラの建造物の中でも最も美しいもののひとつだといわれている。 高さ45m、幅50mとエル・ハズネより大きいこの建物は、紀元1世紀頃ドゥシュラ神に捧げるために造られたナバテア人の神殿であるとか、ラベル2世(紀元70年/71年 -106年、ナバテア王)の墓だったとか諸説あるが、いずれも定かではない。
後になってキリスト教徒がこれを用いたので、エド・デイル(修道院)と呼ばれている。エド・ディルの周辺にもおびただしい数の穴居群があるが、これらはエド・デイルで多くの修道僧たちが暮らしていた跡とも言われている。
エル・ハズネはその美しさに息を呑むほどだが、この“天空”のエド・ディルは人間のスケールを遥かに越えた壮大さに圧倒されるのである。エル・ハズネとは違った意味で文句なしに感動を覚える遺跡だ。
エド・ディル
エド・ディル
ホル山(ジャバル・ハールーン)とアロンの墓
ホル山
頂上に見える白いドームがアロンの墓
アロンの墓
ペトラの南西およそ2kmにジェベル・ハールーン(アロンの山=ホル山)という山があるが、これは聖書の「ホル山」で、ここはモーセの兄弟アロンが死んだところだと信じられてきたが、 歴史地理学的に「ホル山」がどこにあったかは明らかではではない。
ホル山の頂上に、モーセの兄、アロンの墓がある。 ビザンチン時代の教会や後代のイスラムのアロンの聖堂(13世紀にマムルーク朝のスルタンによって建てられた白いドーム型のモスク)・墓は山頂に建てられ、現在も世界中から巡礼者が訪れている。
ペトラ遺跡は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、1985年にユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録がなされた。
(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。